山祇神社 飯島町 [神社を散歩]
大きな地図で見る
飯島町と松川町の境の辺りにある神社です
奉灯が大きいです
縄がかけられていても不思議でない巨石の周囲は池だったようです
この石垣は隙間がなく2.5mほどの高さもあって立派です。
拝殿は小さめ、本殿は覆いの中でした。
磨れて原型をとどめない狛犬。
吉瀬諏訪神社 駒ヶ根市 [神社を散歩]
大きな地図で見る
飯島町だと思い込んでいましたが、地図で確認したら駒ヶ根市でした
摂末社の数が結構あります
神楽殿というか舞台は大きめです。
一見何の変哲もない社叢
目通り2.5m以上のカヤが7,8本、うち3.5mクラスのカヤが3本確認された巨カヤの森です
塩竈神社 松本市 [神社を散歩]
奥州一ノ宮の塩竈神社を勧請してきたということなので中々しっかりした神社です。
拝殿は大きくはありませんし、派手な彫刻もありませんがしっかりした感じがあり好感が持てます
ご本殿も同様に派手ではありませんがしっかりしています
拝殿は大きくはありませんし、派手な彫刻もありませんがしっかりした感じがあり好感が持てます
ご本殿も同様に派手ではありませんがしっかりしています
昭和20年日本は連合国側が発したポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した
マッカーサー率いるGHQの占領政策を遂行、日本人を精神的に骨抜きにすることを目的に、
国民学校にある、天皇陛下御真影の奉安殿を撤去す、
この奉安殿は田町国民学校の奉安殿、今度八坂神社の奉安殿として、皇祖無窮、国家安泰、氏子崇敬者の繁栄を祈り、日本国民が心の中の八岐の大蛇を取り除き、共存共栄万世まで弥栄を願うものなり。
日吉神社 [神社を散歩]
勿体無い。
最澄が創建したといわれているので、歴史のある神社だと思います。
最澄が創建して寺ではなく神社。神仏混淆垂迹だったのでしょう
この塔は斎藤利綱が再建し、のちに稲葉一徹が脩造したということです。
20年前に見たときは桧皮葺の屋根が格好よかったです。
日本海考 [歴史を散歩]
半島南部から出土する石器の黒曜石は隠岐のものが多い。当時の「先進国」が原料をまともに加工できない不思議さはある。
やはりそうかくらいの発見だけれど、糸魚川の翡翠も東アジアで広い範囲で数多く見つかっている。
翡翠ほどの範囲になるとどう考えても交易していたと思う。
献上していたという説があるけれど、古代に糸魚川から上海の傍まで献上しにいけるだけ技術はなかったと思う。
日本では越の国について今ひとつ検証が進んでいないけれど、環日本海文化圏が存在していたのだと思う。
そう考えると鉄器も渤海経由で入ってきた可能性がある。
白鳥神社 東御市 [神社を散歩]
海野宿の入り口に鎮座する神社です
境内に池があり周りを大きな木々が囲んでいます。
真田氏、海野氏の神社としては簡素な拝殿です
本殿は屋根の造りから行って立川流の流れをくんだ感じです。
立派過ぎる摂社です。木鼻のところが角のようになっているのが上田界隈のご本殿の特徴かもしれません
境内に池があり周りを大きな木々が囲んでいます。
真田氏、海野氏の神社としては簡素な拝殿です
本殿は屋根の造りから行って立川流の流れをくんだ感じです。
立派過ぎる摂社です。木鼻のところが角のようになっているのが上田界隈のご本殿の特徴かもしれません
ヒクソス朝 [歴史を散歩]
異民族王朝だが具体的にどこの民族なのか不明です。
異民族ではないという説すらあります。
クレタと関係があったことも更に謎を深めます。
謎の多い王朝だけに謎が少しでも解明されれば面白いです
神護原神社 松川町 [神社を散歩]
大きな地図で見る
国道を挟んで古町という地名なので不思議に思い地図を見たら、国道が集落の真ん中を飯田線と平行に切り裂いていました。国道の向こう側にも存在しているカヤの巨木も大島城の兵糧だったのではないかと思います
そうした古い地に背を向けてに丘の上にこの神社はあります。
構えからして立派です。
この格の神社としては考えられないほど長くて広い参道です
境内もこざっぱりしていて気持ちがいいです。
拝殿はたいそうなものではないですが、手入れが出来ています。
この神社で特筆すべきは、飯田形式ではなく、安曇野形式の神社だということです。
拝殿に対し90°に配された神楽殿です。これも安曇野形式です。
やはり諏訪のようです
御神木の杉。
広々とした境内
大きな奉灯です。近くの七椙神社と張り合っていたのでしょう。
安曇野形式の神社としてはかなり立派です。本家の安曇野にもここ以上の社領規模を持つのは穂高神社と住吉神社くらいではないでしょうか?
集落の神社としては最大級だと思います。
期待したのですが・・・ [歴史を散歩]
最晩年の作品が発見されたかと思いました
残念。
写実的な宗教画というのは当時革新的だったのだと思います。
ルネサンスの終焉を告げたようとしていた時代に新しい様式を生み出した一人の芸術家として歴史的にもっと高い評価を与えられてもよい画家だと思います