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上川路八幡 飯田市 [神社を散歩]


以前から大きなモミの木が気になっていた神社です


石垣を階段状に組各段に社殿などを配置する典型的な飯田形式の神社です

本殿の覆いの前に舞台を置くという形は飯田以南で見られる形です

別に神楽殿もありました

飯田の神社は見栄えがして良いです

眼下に広がる光景ものどかです。
近くにギフチョウの生息地もあり、自然が残っている土地でした

平清盛 [歴史を散歩]

12年の大河ドラマは清盛だそうです。
武士階級が急速に力をつけた激動期なので面白いと思います。
ステレオタイプな成り上がって暴君になって滅ぶという話ではなく、
どうやって力をつけ、貴族階級を乗り越えたのかという物語が見たいものです。

保元の乱の為朝とか、木曽義仲といった荒武者や、軍事的天才でありながら政治的に無知な義経もどのように描かれるのか楽しみです。

配役によっては見ない可能性もありますが・・・

大宮神社 豊丘村 [神社を散歩]


周囲5m弱の杉が御神木。

これが典型的な「飯田の神社」の形式です。境内の空間を広くするために社殿を崖の上に作り、脇参道を配して石垣でかためる。なんとも格好がいい。

ご本殿も大きくて杮ぶき。村の重文でも全く問題のないご本殿です



謎の摂末社群。摂末社にしてはどれも立派過ぎる・・・・・・・合祀され今はない神社の本殿ではないだろうか?
謂れをはっきりさせればより価値が高まると思います

大山田神社 下條村 [神社を散歩]


強弓で有名な為朝が祀られているのが興味深いです。土地の名も鎮西ですし、この神社の出で造園業を営む家も鎮西家なので余程の縁があるのだと思います

表参道の鳥居の後方に広がる森の深さに驚きました


実際には表からは駐車スペースがなく入れませんでした。
参道を取り囲む杉の大樹。自然相豊かな杜は県内の神社でも屈指でした。


立派な御神木です。目通り周囲7.8mですが、バランスの取れた樹形、天空にすらっと伸びた樹高は見事です


拝殿の手前に舞台を置く形式です。飯田の七久里神社と同じです。
中央のご本殿。江戸時代らしい流れ造りでした

国の重文の為朝公のご本殿

こちらも国の重文八幡社のご本殿。

神域らしい多様な自然が残る神社でした

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栗林神社 [神社を散歩]


石垣を作る飯田形式の神社の系譜です

拝殿は瓦葺です

瓦もかなり凝ったことをしています

ご本殿はしっかり囲われていて見えません

コナラ?この木がたくさん並んでいました

高根神社 大町市 [神社を散歩]


題字が明治神宮の神官というのがたいしたものです

神楽殿はかなり大きい部類です。

拝殿はそれなりという感じです

石祠が並んでいます。周辺の祝い殿や合祀した神社のものなのかはよくわかりません

大町地区のご本殿は小ぶりです


杜の中で異彩を放っていた木です。

矢原神明宮 安曇野市穂高 [神社を散歩]



拝殿の屋根が低めに作られているので木の高さが強調されて境内が広く感じます


神楽殿がしっかりした感じです。


穂高地区の神社特有配置ではないです。
拝殿はそれなりな感じです。


立派な摂末社です。合祀された神社のものでしょうか。






流れ造りのご本殿は中々立派です前方の屋根の傾斜が緩いのが特徴的です。


奉納されていた繭玉。
産玉社が元になっていたのか、神明≒伊勢の麻織物が転じて絹織物まで対象になって言ったのかはわかりませんでした

御射宮司社 岡谷市 [神社を散歩]

諏訪湖のほとりにある神社です。
社領は道にされてしまい広くはないのですが社殿は中々たいしたものです。



凝った彫刻と大き目の拝殿は秀逸です


ご本殿も立派です。

御射宮司は「ミシャグジ」に通じ、諏訪大社上社の信仰の中核はミシャグジ信仰だと言われています。
論より証拠で諏訪湖周辺には諏訪神社は大社4社くらいですが、御射宮司社は他の地域と比べて数多く存在します。

竹淵諏訪神社 [神社を散歩]



このあたりは現在松本市ですが江戸時代には高島藩の藩領だった時期もありました


周囲には水路が張り巡らされています

神楽殿は新しいです

拝殿もまだ新しい感じです


ご本殿は稲荷社と合祀されているので2つに仕切られています

中先代の乱 [歴史を散歩]

北条時行の鎌倉脱出の際、金刺盛澄の家人の末裔たちが顔の皮をはいで割腹し、首実検を妨害したといわれています。

義仲側に立って戦った金刺盛澄を助けた頼朝≒北条氏への恩顧なのかも知れない。
頼朝は清盛のように朝廷に取り込まれないように注意し、勢力を拡大したいと考えていたのだと思われます。
時代の改革者であった清盛と政権維持に腐心した頼朝という対比が出来る事例だと思います。

(吾妻鏡では金刺盛澄は京にいたことになっていますが、大祝は毎年下諏訪神社で神事に出て行くので、吾妻鏡のこの記述はおかしいです。)

諏訪盛高が諏訪につれて帰り時行を旗頭にして起こした反乱が中先代の乱です。

諏訪勢と滋野一族がまた義仲の一件同様の反乱を起こし、一時は直義を破り、鎌倉を陥落させます。この際、直義が護良親王を弑逆に及んだため、反北条、親護良親王だった村上氏を引き込むことが出来ず(おそらく、反北条、親護良親王の地方武将が全国に数多くいたと思われる)目的の達成度合いは中途半端になってしまいます。そしてシンボリックな意味だけの鎌倉防戦となり尊氏に連戦連敗し、鎌倉も失なってしまいます。

この反乱を期に尊氏は建武の新政を離脱することになりました。

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